憧憬スポット

2012年6月 3日 (日)

シュノンソー城(憧憬スポット 6)

シュノンソー城は、フランスのロワール地方に点在する数ある城館の中でも、最も美しいものの一つで、ロワール川の支流のシェール川をまたいで佇むその姿は優美この上もありません。

この優美さは、もちろんその外見から来るものではありますが、他にもこの城の主(あるじ)が代々女性だったということにも由来しているようで、しばしば「6人の奥方たちの城」などと呼ばれています(以下、歴代の女城主たちの名を太文字で表記します)。

もともとこの城は、1515年に古い水車場の上に建てられたもので、依頼主はトマ・ボイエという財務官だったのですが、彼自身は仕事に忙殺されていたため、妻のカトリーヌのイニシアチブによって完成しました。

1535年には王室に譲渡されましたが、その12年後にアンリ2世が愛人のディアンヌ・ド・ポワティエにこの城を与え、彼女は初めてシェール川にアーチ型の橋をかけました。

しかし、アンリ2世が死去するや、やもめとなったカトリーヌ・ド・メディシスがこの城の所有権を主張し、ディアンヌを追い出して主となりました(ディアンヌのほうはショーモン城へ移り住みました)。

カトリーヌは、橋の上に現在見られるような華麗な大回廊を造り、夜毎に盛大な宴を催し、城館や庭園を舞台に豪華絢爛たる生活を繰り広げました。

この後、シュノンソー城はアンリ2世の息子であったアンリ3世の妃ルイーズの手に渡りましたが、18世紀にはルイーズ・デュパン(デュパン夫人)が主となり、その節度あるサロンには、ジャン・ジャック・ルソーやヴォルテールらの文化人が招かれました。

そして19世紀のプルーズ夫人の大改修を経て、1913年からは有名なチョコレート製造業者のムニエ家が所有者となり、現在に至っています(なお、第一次世界大戦中には、この城館は傷病兵の仮の病院として使用されました)。

見どころとしては、白黒の市松模様が美しい大回廊(長さ約60メートル)、中世の教会風のアーチ型の天井を持つ玄関、そしてディアンヌ・ド・ポワティエやカトリーヌ・ド・メディシスを始めとする貴顕たちの寝室やそれらを彩る美しいタピスリーなどが挙げられます。

また、この城館は二つの美しい庭園に囲まれていて、その花壇には10万本以上もの植物が植えられています。

男性的で壮麗なシャンボール城とはまた違った、女性的で優美な姿をもつこのシュノンソー城は、周囲に広がる風雅な庭園とあいまって、ロワール地方の城館の中でも最も人気のあるシャトーの一つになっています。

シュノンソー城(英語)

シュノンソー城のビデオ

2012年5月25日 (金)

岳陽楼と滕王閣(憧憬スポット 5)

岳陽楼(がくようろう)と滕王閣(とうおうかく)は、どちらも江南三大名楼に数えられていますが(もう一つは黄鶴楼)、それぞれ岳陽と南昌という、風光明美な古都の水辺に建てられた趣のある建築物です。

岳陽楼は、西に洞庭湖(この湖を中心として湖南、湖北等の省名が付けられた)という中国有数の絶景を望む位置にあり、古来多くの文人墨客がここを訪れ、優れた作品を創作しました。

これらの中でも特に人口に膾炙しているのが、詩聖杜甫(712~70)の詠んだ『岳陽楼に登る』という詩です。

768年冬、流れ流れて岳陽にたどり着いた詩人は、洞庭湖畔にあるこの楼に登って、自身の老病漂泊の身の上と未だ戦乱の止まない時世に深く傷心し、この優れた詩をものしました。

昔聞く 洞庭の水

今上(のぼ)る 岳陽楼

呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け

乾坤(けんこん) 日夜に浮かぶ

親朋(しんぽう) 一字無く

老病 孤舟有り

戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北

軒(けん)に憑(よ)りて 涕泗(ていし)流る

また、宋代の名臣であった范仲淹(はんちゅうえん)(990~1052)が、岳陽楼の修築(1045年)に際して、上に立つ者は「天下の人々に先んじて憂え、後(おく)れて楽しむべきである」という、のちの「先憂後楽」の典拠になる言葉を含む『岳陽楼の記』(長めの文なので割愛します)というすぐれた文章を作ったことも有名です。

岳陽楼は三国時代の水軍の閲兵台をその起源とし、唐時代の717年に本格的に建てられましたが、現在見られる楼は清代(1880年)の建物を復元したもので、主楼(高さ約20メートル)の左右にそれぞれ仙梅亭三酔亭があり、周囲には岳陽門などの趣ある建造物が配されています。

一方、南昌を流れる贛江(かんこう)に臨む滕王閣は、唐時代(659年)に創建されて以来、幾度も消失と再建を繰り返してきましたが、現在見られる楼は1983年に建てられたもので、約45メートルの高さを誇っています。

この楼閣を有名にしているのが、唐時代の詩人、王勃(おうぼつ)(650~76)が675年に作った『滕王閣の序』という名文(割愛します)と、以下に書いた詩、『滕王閣』です。

滕王の高閣 江渚(こうしょ)に臨み

偑玉(はいぎょく)鳴鑾(めいらん) 歌舞罷(や)みぬ

画棟(がとう)朝(あした)に飛ぶ 南浦(なんぽ)の雲

朱簾(しゅれん)暮れに棬(ま)く 西山の雨

間雲(かんうん)潭影(たんえい) 日に悠々

物換わり星移りて 幾度の秋ぞ

閣中の帝子 今何(いず)くにか在る

檻外(かんがい)の長江 空しく自ずから流る

中国らしい悠久の歴史と名高い詩文に彩られたこれらの楼閣は、その風雅な外観と周囲の絶景により、内外から多くの観光客を惹きつけているこの国有数の観光スポットとなっています。

岳陽楼案内

岳陽楼のビデオ

滕王閣案内(英語)

2012年5月 1日 (火)

ショーモン城(憧憬スポット 4)

フランス中部から大西洋に注ぐロワール川の中で、中流から下流にかけて広がっている、いわゆる「ロワールの渓谷」一帯は、温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、「フランスの庭」とも呼ばれている風光明美な地方です。

古くから王侯貴族たちが目を付けて住みついていたこの地方には、世界的に有名な美しい古城が数多く点在し、その恵まれた自然環境とあいまって、世界中から多くの観光客を惹きつけています。

この地方の一部はユネスコの世界文化遺産にも登録されていますが、その中でも有名な古城の名前を挙げてみるなら、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城、ショーモン城、アゼ・ル・リドー城・・・ というように枚挙にいとまがありません。

今回ご紹介するショーモン城は、現在数百も点在しているロワール地方の城(一般公開されているのは約80)の中でもかなり有名で、私自身最も気に入っているものです。

ロワールの古城は、軍事的な防備のために建てられた、やや無骨な感じのする城塞と、そのような性質はなく、居住する場所としてのみ使用される優雅な居館という二つのタイプに大別できるのですが、ショーモン城はこれら二つのタイプを兼ね備えている城館です。

ショーモン城は、正式な名称を「ショーモン・シュル・ロワール城」と言い、ロワール川を見下ろす丘の上に建てられています。

その外観は、一見すると居館のように見えますが、入口付近には跳ね橋があり、またその分厚い壁や石落としなどが、この古城がただの居館ではなく、城塞としての役目も果たしていたことを物語っています。

三角帽子(円錐)型の屋根を持つ丸い白壁の塔は、どことなくメルヘンチックで、親しみすら感じられます。

この城は1465年から16世紀の初めにかけて造られたものですが、イタリア・ルネサンス様式も取り入れられており、ただの防備用の城砦とは明らかに異なった、優美な雰囲気を醸し出しています。

この城とシュノンソー城をめぐるエピソードとして人口に膾炙しているのが、アンリ2世(在位1547~59)をめぐる二人の女性、すなわち王妃カトリーヌ・ド・メディシスと王の愛人ディアンヌの確執です。

もともとシュノンソー城には、アンリ2世からこの城を与えられたディアンヌが住んでいましたが、カトリーヌは、夫が世を去ると、ディアンヌに対して強制的にシュノンソー城と引き換えにこのショーモン城を与えたということです(もっとも、ディアンヌはこの城が気に入らず、長くは住みませんでした)。

見どころとしては、その趣のある外観、大広間、ビリヤードの間、カトリーヌ・ド・メディシスの寝室、そして厩舎などがありますが、周りに広がっている庭園もまた見逃せないでしょう。

有名なシャンボール城やシュノンソー城などに比べれば、やや影の薄い存在かもしれませんが、この城砦と居館の双方の性質を兼ね備えたユニークなデザインのショーモン城は、ロワール地方の多くの古城の中でも、今私が一番訪れてみたいスポットとなっています。

ショーモン城

ショーモン城のビデオ

2012年4月20日 (金)

黄鶴楼(憧憬スポット 3)

黄鶴楼は、中国の湖北省武漢市の南西の長江岸、蛇山の頂にある高楼で、洞庭湖畔の岳陽楼および南昌の滕王閣とともに、江南三大名楼に数えられています。

三国時代の223年に最初の楼が建てられて以来、幾度か再建されましたが、現在見られる黄鶴楼の建物(高さ約51メートル、五層構造)は1985年に再建されたもので、その風雅な姿は武漢長江大橋等と並んで武漢市のランドマークになっています。

私がこの黄鶴楼に惹かれているのは、もちろんその趣ある外見にもよりますが、それ以上にこの名楼閣にまつわる言い伝えや、この地で古の詩人たちが詠んだすばらしい詩などによるものが大きいと思います。

まず、伝説のほうですが、大まかに言って次のようなものです。

その昔、辛氏という酒店にひとりの仙人がやって来て、壁に黄色い鶴を描いて立ち去った(彼はその絵を酒代に充てた)。

ところがそれ以後、その鶴が客の歌に合わせて踊りだすようになり、そのことが評判となって店が繁盛し、辛氏は巨万の富を築いた。

その後、再び例の仙人が店に現れて笛を吹くと、黄色い鶴が彼のもとにやって来たので、彼はその背にまたがり白雲に乗っていずことも知れず飛び去った。

そこで辛氏はこのことを記念して楼を築き、黄鶴楼と名付けた。

そしてこの伝説をもとにして、盛唐期の詩人、崔顥(さいこう)(704?~54)は『黄鶴楼』という詩を書きました(訓読みだけ掲げますが、一部、漢字をひらがなに直しています。なお、漢詩の意味等については漢詩集等を参照していただければ、と思います)。


昔人(せきじん) すでに黄鶴に乗りて去り

この地 空しく余す 黄鶴楼

黄鶴ひとたび去りて復た返らず

白雲 千載 空しく悠々

晴川(せいせん)歴々たり 漢陽の樹

芳草萋萋(せいせい)たり 鸚鵡州(おうむしゅう)

日暮 郷関 何れの処にか是れなる

煙波 江上 人をして愁えしむ


また、同じ盛唐期に活躍した李白(701~62)も、有名な『黄鶴楼にて孟浩然(もうこうねん)の広陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る』という七言絶句を書きました。


故人 西のかた黄鶴楼を辞し

煙花三月 揚州に下る

孤帆の遠影 碧空に尽き

唯だ見る 長江の天際に流るるを


今も昔と変わらず、悠々たる長江を見下ろしている黄鶴楼の姿は、その不思議な伝説と名高い詩によって、いちだんと格調高く彩られているようにも感じられます。

黄鶴楼案内

黄鶴楼360度

2012年3月26日 (月)

ペレシュ宮殿(憧憬スポット 2)

風光明媚なカルパチア山脈中のシナイアの丘陵にあるペレシュ宮殿(ペレシュ城)は、ルーマニアで最も壮麗な宮殿と言われている、旧王朝の離宮です。

南ドイツ出身のカロル一世は、1881年に初代ルーマニア国王となりましたが、彼が長年月をかけて建てた夏の離宮が、このペレシュ宮殿です。

共産党のチャウシェスク政権下では、この美しい離宮は博物館として細々とその命脈を保っていましたが、1989年の革命後大々的に公開され、その美しい外観は言を待たず、数多くの素晴らしい部屋や貴重なコレクションが、観光客の目を楽しませています。

ドイツおよびチェコの建築家によってドイツ・新ルネサンス様式でデザインされたこの宮殿は、木、石、レンガ、そして大理石等で造られていて、魅惑的な小塔や尖塔を有しています。

「ペレシュ宮殿」とは、この離宮の中庭を流れていた「ペレシュ」という小川の名前に由来しているそうですが、とにかくその中に収蔵されているお宝を見ていけば、各種武器、約2000点もの絵画、豪華なステンド・グラスやシャンデリア、金銀の皿、マイセンやセーブルの陶磁器、黒檀や象牙の彫刻作品というように、枚挙にいとまがないほどです。

この宮殿の内部には、有名な「フィレンツェの間」を始めとする160以上もの部屋がありますが、外部にもまたこの建物を囲んでいる美しいテラスが七つあり、その中にはイタリア作家の彫刻作品や優れた花瓶の彫刻などが配されています。

この類まれにみる建築美を誇るペレシュ宮殿は、現在ルーマニア国に帰属しています。

ペレシュ宮殿(英語)

ペレシュ宮殿のビデオ

2012年3月12日 (月)

頤和園(憧憬スポット 1)

中国の首都である北京にあって、故宮、天壇等と並んで有名な観光地である頤和園(いわえん)は、世界文化遺産にも登録されている、この国でも指折りの名所です。

頤和園は、北京の北西郊外約10キロのところに位置していますが、その歴史は古く、起源は12世紀半ばの金王朝時代にまで遡ります。

1750年に、時の皇帝であった乾隆帝により清漪園(せいいえん)として整えられましたが、1860年のアロー号戦争(第二次アヘン戦争)中に、英仏連合軍によって破壊されるという憂き目にあっています。

しかし1895年に至り、西太后が自分の還暦祝いのために巨額の海軍経費を流用して再建し、頤和園と名を改め夏の離宮としました。

薄暗い紫禁城(故宮)を嫌った西太后は、後には一年の大半をこの明るく開放的な頤和園で過ごすようになったと言われます。

頤和園には見所が数多くあって、それらについて一つ一つ言及していくことは、このブログ上では到底無理ですが、いくつかの主だったものについて、以下述べてみたいと思います。

頤和園は大きく分けると、この広大な庭園の四分の三を占めている人造湖である昆明湖(こんめいこ)と、万寿山(まんじゅさん)から成っていて、この万寿山の中にシンボルともいえる仏香閣(ぶっこうかく)があります。

昆明湖は、江南地方の杭州の西湖を模したものと言われ、万寿山はその拡張時に出た土砂で築かれたものであり、仏香閣は八角形の趣ある建物です。

また昆明湖の東側にある南湖島と陸地を結んでいる十七孔橋は、その高欄にそれぞれ異なる顔の唐獅子の彫像を持つ、美術的にも価値が高いと目されている美しい橋です。

この他、西太后等が政務を司った仁寿殿(にんじゅでん)、1898年の戊戌(ぼじゅつ)の政変の際に光緒帝が幽閉された玉蘭堂(ぎょくらんどう)、湖中に建造された、石造の舟の形をした石舫(せきほう)、そして乾隆帝が蘇州の商店街を模して造った蘇州街(1990年に復元された)等、枚挙にいとまがないほどです。

しかし、以上のような見ごたえのある名所もさることながら、ワタクシ的に一番興味を惹かれる場所はどこかと問われれば、迷うことなく長廊だと答えることでしょう。

全長728メートルのとてつもなく長いその歩廊の梁には8000もの花鳥、山水画が描かれていて、まさに長大な画廊とも言えるほどです。

ちなみに、以前、神田の某中国書籍専門店で、この長廊の絵を載せている画集を見つけ、ちょっと食指も動いたのですが、あまりにも高価だったため購入を見送ったという思い出があります。

この長廊の美しい絵を鑑賞しながら昆明湖のほとりに沿って逍遥するのが目下の夢なのですが、まともにやると相当疲れる、いやほとんど不可能でしょうから、その辺は程よくやり過ごしたいと思います。

また、龍船遊覧船に乗って昆明湖をクルーズするのも忘れてはならないでしょう。

清朝末期の皇帝一家の離宮であったこの頤和園は、今では北京市民の憩いの場であり、また世界中から観光客を惹きつけている中国有数の観光スポットになっています。

頤和園案内

頤和園のビデオ