外国文学

2012年8月26日 (日)

あいびき (6) (ツルゲーネフ作)

Photo_6私はしばらくたたずんでいたが、やがて例のヤグルマギクの花束を拾い上げると、白樺林から野原に出た。

もう太陽はほの明るい空の低いところにあり、その光もまた、まるで色褪せて冷たくなってしまったかのようであった。

その光は明るく輝かずに淡くむらなく広がっていたので、ほとんど薄明のようだった。

日の入りまでにはもう半時間もなかったが、ほんのかすかな空焼けが現れていた。

黄色い乾いた取り入れ後の畑を超えて、突風が吹きつけてきた。

反り返った小さな枯葉は、その風でにわかに舞い上がると、道を横切り、それから森の端に沿って私のそばを吹き飛んで行った。

白樺林のうち、野原に面した部分はみなうち震え、明るくとまでは言えないまでもかなりはっきりときらめいていた。

やや赤みを帯びた草の上では、・・・至る所で無数の秋の蜘蛛の巣がきらめき、波立っていた。

私は立ち止まった・・・

なんだか物悲しくなってきた。

凋落しつつある自然の悲しくも澄みきった微笑の陰に、冬のあの陰気な恐ろしさがすぐ近くまで忍び寄っているように感じられた。

上空高く、用心深そうなワタリガラスが荘重に翼を広げて飛び過ぎて行った。

ワタリガラスは頭をひねって横から私を見据えたが、すぐにまた高く舞い上がると、途切れがちにかあかあと鳴きながら、森の向こうに姿を消した。

穀物小屋からハトの大群がさっと飛んできたかと思うと、突然くるくると旋回し始めたが、やがてばらばらっと畑に降り立った・・・

ああ、秋の気配がする!

何も生えていない丘の向こう側を、ごとごとと大きな音を立てながら、誰かが荷馬車に乗って通り過ぎて行った・・・


私は家に帰った。

だがあの哀れなアクリーナの姿は、長いこと私の念頭から去らなかった。

そして彼女の摘んだあのヤグルマギクはもうとっくにしおれてしまったが、今なお私はそれを大切に保存している・・・


Свидание

2012年8月21日 (火)

あいびき (5) (ツルゲーネフ作)

Photo_5ヴィクトルは再び寝転んで、口笛を吹き始めた。

アクリーナはずっと彼を見つめていた。

私は彼女が次第に興奮してきているのに気づいた。

その唇はかすかに震え、その青白い頬はほのかに紅がかってきた・・・

「ヴィクトル・アレクサンドルィチ、」

ついに彼女は途切れるような声で言い出した。

「あなたは罪深い人ね・・・

本当にあなたは罪深い人だわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ!」

「一体何が罪深いのさ?」

眉をひそめて彼は訊いた。

それからちょっと頭を起して彼女の方を向いた。

「罪深いわよ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。

この別れ際に、せめて一言やさしい言葉をかけてくれたっていいものを。

せめて一言、この不運なみなしごに甘くささやいてくれてもいいのに・・・」

「一体何を言えばいいってんだい?」

「わからないわ。でもそれはあなたの方がよく知ってるはずよ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。

だから、ねえ、せめて一言でいいから・・・

あたし、何をもってそれに報いたらいいのかしら?」

「何だかよくわからねえな! 一体おれに何ができるってのさ?」

「だから、ほら、ひとこと・・・」

「ふん、同じことばかり繰り返してやがらぁ」

腹立ちまぎれに彼はそう言って、立ち上がった。

「怒らないで、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

やっとのことで涙をこらえながら、彼女はとっさにそう言い足した。

「怒っちゃいないさ。だがきみも物わかりが悪いぜ・・・

一体どうしろってんだい?

おれときみが結婚できるとでも思ってるのかい?

できゃしないさ。

一体全体、どうしろってんだい? まったく!

(彼は返答を待ちうけているかのように、首をすくめて両手のひらをぶざまに広げて見せた)

「あたし、なんにも・・・なんにも欲しくはないわ」

うち震える両手をやっとのことで差し伸ばして、口ごもりつつ彼女はそう答えた。

「でも、このお別れの時、せめて一言でいいから・・・」

突然、彼女の目から涙が流れ始めた。

「やれやれ、やっぱり泣きだしちまった」

帽子を目深にずり下ろして、ヴィクトルは冷やかにそう言った。

「あたし、なんにも欲しくないの」

顔を両手で覆い隠して、すすり泣きながら彼女は言い続けた。

「でも、これからあたし、あの家族の中で一体どうなるの?

これからどんなつらいことがこの不運なあたしを待ち受けているのかしら?

このみなしごのあたしなんか、気に染まない男のところへ嫁にやられるだけだわ・・・

ああ、あたしって何て不幸なの!」

「何とでも言うがいいさ」

ヴィクトルは少し当惑して、小声でつぶやいた。

「せめて一言でいいから甘い言葉を・・・たとえばこんな風に、『アクリーナ、おれは・・・』」

言い終わらないうちに、感極まったアクリーナは突然わっと泣き崩れてしまった・・・

彼女は突っ伏すと、顔を草に埋めてさめざめと泣きだした・・・

その全身はひくひくと波立ち、ことさら首筋のあたりが激しく上下するのだった・・・

長いこと抑えられてきた悲しみが、ついにどっとあふれ出したのである。

ヴィクトルはその間じゅうずっと彼女を見下ろして立っていたが、やがて彼女の両肩にそっと触れると、くるりと向きを変えて、大股でその場を立ち去って行った。


少し時間が経った・・・ 

彼女は動かなくなり、やがて顔を上げると急に立ち上がった。

そしてあたりを見回してから、思わず両手をはね上げた。

アクリーナはヴィクトルの後を追って駆けだそうとしたが、足が前に出なかった・・・

また彼女はくず折れてしまった・・・

私はもうこらえきれなくなって、彼女のところへ駆けよった。

しかし私を見るやいなや、・・・どこから力が出てきたものか・・・彼女はあっと小声で叫んで立ち上がると、いつのまにか木立の向こうに姿を消してしまった。

地面の上には、花が投げ散らかされたままになっていた。

2012年8月14日 (火)

あいびき (4) (ツルゲーネフ作)

Photo_4「お花よ」

寂しげにアクリーナが答えた。

「野原で摘んできたヨモギギクなの」

幾分生気を取り戻して、彼女は言い続けた。

「子牛が喜んで食べるわ。それからこのタウコギは・・・るいれきに効くの。

ねえ、ちょっと見てよ、何て美しい花でしょう。

こんなに魅力的なお花、あたし、生まれて初めて見たわ。

これはワスレナグサ、そしてこっちの方はマトキナドゥシカよ・・・

それから、ほら、これはあなたにあげようと思って摘んできたものよ」

黄色いヨモギギクの下から細い草でくくった空色のヤグルマギクの小さな束を取り出しながら、彼女はそう言い足した。

「受け取ってくださる?」


ヴィクトルは物憂げに片手を伸ばしてそれを取ると、ちょっと花の香りを嗅いでみたが、すぐに、さももったいぶった思案げな様子で空を仰ぎ見ながら、花を指でいじくりだした。

アクリーナは彼を見つめていた・・・

彼女の悲しげなまなざしからは、いじらしいほどの献身と恭順と恋慕がありありと見受けられた。

彼女はヴィクトルを大変気づかって、泣くのをこらえていた。

そして別れの挨拶を交わすと、これを最後と彼に見惚れるのだった。

ところが彼の方は、まるでスルタンのようにだらしなく寝転んで、しかたなく雅量をもって相手の崇拝を受け入れてやるといった風だった。

正直言って、この時私は憤懣の念をもって、そのさげすむような冷淡な態度の裏に、自尊心を十分に満たされて内心ほくほくしている様子が透けて見える、その男の赤ら顔を見つめていた。

この時のアクリーナはまことに美しかった。

男を前にして、彼女はその熱い恋心を隠し立てもなく見せ、その全霊でもって男に憧れ、甘えていたのである。

それなのに男の方は・・・男は例のヤグルマギクを草むらの上に落とすと、外套の脇ポケットから青銅色のまんまるい片眼鏡を取り出して、それを自分の片一方の目にはめようとし始めた。

しかし、眉を上げ下げしてみたり、頬を上へ引きつらせてみたり、鼻をひくひく動かしてみたりして、いくらはめ込もうと試みても、・・・その片眼鏡はいつもはずれて、彼の手の中に転がり落ちるのだった。

「それ、なあに?」

さっきから驚いていたアクリーナが、ついに尋ねた。

「ロルネット(訳注:片眼鏡のこと)だよ」

尊大に彼は答えた。

「何に使うの?」

「これを使うと、よりはっきりと見えるのさ」

「ちょっと見せてちょうだいな」

ヴィクトルは渋面を作ったが、彼女にその片眼鏡を与えた。

「壊さないように気をつけてくれよ」

「大丈夫。壊さないから。

(彼女はその片眼鏡をおずおずと自分の片目の近くに持っていった)

なぁんにも見えないわ」

あどけない口調で彼女は言った。

「目を細めなくちゃだめだよ」

不満げな教師のような声で彼は応じた。

(片眼鏡を手に持って近づけたまま、彼女は目を細めた)

「ああ、そうじゃないよ、そうじゃないったら!

ばかだなぁ、表と裏を間違えるなんて!」

ヴィクトルは大声でそう言うと、アクリーナが片眼鏡の表と裏をひっくり返さないうちに、もうそれを取り上げてしまった。


アクリーナは顔を赤らめてかすかな笑みを浮かべると、横を向いた。

「あたしたち、一緒になるべきじゃないのかもしれない」

「当然だろ!」

哀れな娘は押し黙って、深々とため息をついた。

「ああ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなたがいなくなったらこのあたし、一体どうしたらいいの!」

不意に彼女が言った。


「そうさな」

やっと彼は言い出した。

「確かに初めのうちはつらいだろうな。

(彼はアクリーナの肩を慇懃無礼に軽く叩いた。

アクリーナは自分の肩にかかっている彼の手をゆっくりと取ると、おずおずした様子でそれに口づけした)

これはこれは、本当に気立てのいい娘だな」

得意げな薄笑いを浮かべながら、彼は言い続けた。

「でも一体どうすりゃいいってんだい? 考えてもみなよ!

おれと旦那はここに残るわけにゃいかんのだ。

もうすぐ冬がやって来るが、冬ともなればこの村なんぞ、・・・きみも知ってるように・・・

ただ退屈でやりきれないだけだ。

だがぺテルブルクはそうじゃない!

あそこには、きみみたいな田舎者が夢にも思い描くことのできないすばらしいものが、ほんとにあるんだ。

建物といい街路といい、目を見張るばかりで、社交界やその教養ときたら、・・・まったく驚くべきものがある!・・・

(アクリーナは、まるで子供のようにぽかんと口を開けて、彼の話に聞き入っていた)

「だがまあ、」

下を向いて彼は言い足した。

「こんなことをきみにいくら話してみたところで、一体何になるだろう?

所詮きみにはわかりっこないんだからな」

「とんでもない、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。

わかったわ。あたし、今のこと全部わかったわよ」

「ほう、そうかい!」

アクリーナは目を伏せた。

「あなた、以前はあたしにそんな言い方しなかったわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

目を伏せたまま彼女は言った。

「以前は?・・・以前は、だって!ふん、くだらない!・・・以前は、か!」

怒ったように彼は言った。

二人とも黙ってしまった。

「そろそろ行かなくっちゃ」

ヴィクトルはそう言うと、片手をついて立ち上がろうとした・・・

「もう少し待ってちょうだい」

すがりつくような声音でアクリーナが言った。

「どうして? もうお別れの挨拶は済んだじゃないか」

「待ってちょうだい」

アクリーナは繰り返した。

2012年8月 8日 (水)

あいびき (3) (ツルゲーネフ作)

Photo_2私は感づかれないように注意しながら、その男を好奇の目でもって観察した。

正直なところ、彼は私に好感を与えなかった。

男はどうやら、裕福な貴族に仕えている、つけあがった若い侍僕らしかった。

その妙に凝っただらしない身なりは、明らかにモードをてらっていた。

彼は、たぶん旦那のお下がりの、上から下までボタンだらけの短い青銅色の外套を着て、端の方が藤色になったピンク色のネクタイを締め、金モールの付いた黒いビロードの帽子を目深にかぶっていた。

その白いワイシャツの丸襟は、耳の下の両頬に食い込んでいた。

一方、糊づけされた両袖は、男の赤い節くれだった指のところまで覆っていたが、ワスレナグサをつまんだその指先は、金色や銀色のトルコ石の指輪で飾られていた。

その赤みを帯びて生気のある厚かましげな顔は、私に言わせれば、ほとんどいつもきまって同性をむかつかせるものの、あいにくと女性のほうにはしばしば気に入られるといった類のものであった。

どうやら彼は、自分の粗野な顔つきに、さげすみや退屈の表情を付け加えてみようと試みているらしかった。

ただでさえ小さな灰色の目をしょっちゅう細めたり、顔をしかめたり、唇の端を下に曲げてみたり、わざとらしくあくびをしてみたりしていた。

そして洗練されない横柄な様子で、ある時はその赤茶けたこわいもみあげをちょっと整え、またある時は分厚い上唇の上でささくれている黄色い口髭を引っぱり、・・・要するに鼻もちならないほど気取っていたのである。

自分が来るのを待っていた百姓娘を見つけるやいなや、もう彼は気取り始めていた。

ゆっくりと大股で娘のところにやって来て立ち止ると、両肩をひくひくと動かし、両手を外套のポケットに突っ込んだ。

そして哀れな娘に冷ややかな一瞥を投げかけてから、地面に腰をおろした。

「それで、」 

娘には目もくれずに片足をぶらつかせ、一度あくびをしてから男は切りだした。 

「ずっとここにいたのかい?」

娘はすぐに答えることができなかった。

「ずいぶんと待たされたわ。ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

ついに彼女は、やっと聞こえるほどの低い声で言った。

「ああ!(彼は帽子を脱ぐと、眉のすぐ上のあたりから生えているこわくて縮れた頭髪を、さももったいぶった様子で片手で撫でつけた。

そして尊大にあたりを見渡してから、再び自分の大事な頭を丁寧に帽子で覆った)

ああ、すっかり忘れちまうところだったぜ。

おまけに、ほら、この雨だろ!(彼はまたあくびをした)

いろいろ事情があったんだが、それをいちいちきみに知らせることはできなかったんだ。

だから気を悪くしないでくれよ。

おれたちは明日発つんだ・・・」

「明日ですって?」

娘はそう言うと、驚いて彼の方を見た。

「明日なんだ・・・ おいおい、どうか、」

彼女が全身をぴくぴく震わせながらゆっくりとうなだれたのを見て、少々腹立たしくなった彼は、すぐに言い足した。

「どうか泣かないでくれよ、アクリーナ。見るに堪えないじゃないか。

(そして彼はその丸い鼻にしわを寄せた)

泣き止んでくれないのなら、おれはもう行っちまうぜ・・・まったくくだらない・・・すすり泣くなんて!」

「泣かないわ、泣かないわよ・・・」

やっとのことで泣くのをこらえながら、あわててアクリーナは言った。

「では、明日発つのね?」

しばしの沈黙の後、彼女は言い足した。

「いつかまたあなたに会える時が、果して来るのかしら、ヴィクトル・アレクサンドルィチ?」

「会えるだろうさ、会えるとも。だが来年は無理だろう・・・ 長らく会えないかもしれないな。

どうやら旦那はペテルブルクに職を求めているらしい」

ぞんざいな調子で、しかもいくぶん鼻声で彼は言い続けた。

「ことによると、外国へ行くかもしれない」

「あたしを見捨てるつもりなのね、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

アクリーナが悲しげに言った。

「滅相もない。きみのことは忘れないさ。

ただきみももうちっと利口になって、ばかな考えは捨てちまって、おとっつぁんの言葉に従うことだな・・・ 

そうすりゃおれもきみのことを忘れはしないさ。忘れませんよ」

それから彼はゆっくりと伸びをすると、またあくびをするのだった。

「あたしを捨てないで、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

彼女は哀願するような声音で言い続けた。

「ほんとにあたし、あなたのことが好きで好きでたまらないの・・・

ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなたはあたしがおとっつぁんの言うことに従うべきだと言ってるけど・・・ 

でもあたし、やっぱり、おとっつぁんの言うことなんか聞けないわ・・・」

「なぜだい?(彼は仰向けに寝転がって、両手を頭の下で組み合わせると、まるで腹の中から絞り出すようにそう言った)

「まったく、とんでもないことだわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなた、知ってるくせに・・・」

彼女は黙ってしまった。

ヴィクトルは自分の時計の、鋼鉄でできた鎖をもてあそんでいた。

「アクリーナよ、きみも利口な娘なら、」

ついに彼は話し始めた。

「ばかなことを言うもんじゃない。おれはきみに幸せになってもらいたいんだ。

おれの気持ちもわかってくれよ。もちろんきみは物わかりもよく、言ってみれば、全くの田舎者じゃない。

きみの母さんだって、まんざら田舎じみていたわけじゃない。

だが、きみには教育というものがない・・・ だからやっぱりきみは言われるとおりにしなくちゃならん」

「本当につらいわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

「もうよせよ、くだらない。おれはきみが好きなんだ。

何をぶつくさ言うことがあるってんだい!そりゃ何だい?」

彼はアクリーナの方に近寄ると、そう言い足した。

「花かい?」

2012年7月31日 (火)

あいびき (2) (ツルゲーネフ作)

Photoどのくらい眠っていたのかわからないが、目覚めた時には・・・白樺林の中はどこもみな陽光に満ちあふれ、どの方向を見ても、喜々としてざわめいている葉の間から、まばゆいばかりに澄み渡った青空がのぞいていた。

雲は強風に吹き払われて姿を消していた。

とにかくすばらしい天気で、あたりにはあの独特のすがすがしい涼気が感じられた。

それは、とりわけ曇天の後では人の心をあるはつらつとした感じで満たしつつ、もうじき穏やかで清らな夕べがやって来ることを十分に期待させてくれる、あの涼気であった。

私がもう一度運だめしをしてやろうと思って立ちあがった時、不意に、じっと動かないでいる人間の姿が目に入った。

よく見ると、それはうら若い百姓娘であった。

彼女は私から20歩ほど離れた所で、物思わしげにうなだれ、両手を膝の上に力なく下ろしたまま座っていた。

なかばむき出しになった片膝の上には、野の花のかなり太い束が置かれていたが、それは彼女が息をつくたびにゆっくりと格子縞のスカートの上を滑り落ちていくのだった。

のどと手首のところをボタンで留めた、白い小ぎれいなルバシカ(訳注:ロシアの民族衣装)は、胴のまわりにふわふわした小さなひだを作っていた。

首には2列の大きな黄色の首飾りがかかっていた。

娘はなかなかの美人であった。

その見事な薄亜麻色のふさふさとした髪は、つむりのまん中からきちんと分けられて額を半円形で縁どっていたが、その髪を留めている真っ赤な細い帯は、もうほとんどその象牙のように白い額にかからんばかりであった。

彼女の顔のうち、スカーフで覆われていないところはほんのりとした金色に日焼けしていたが、それはあのデリケートな肌だけが帯びる色合いであった。

私は彼女の目を見ることはできなかった・・・彼女は目を伏せたままだった。

だが、その細く秀でた眉と長いまつげははっきりと見えた。

まつげは涙にぬれていた。

そして片方の頬には、少し青ざめた唇のところでとぎれている涙の伝った跡があって、それが日に当たって輝いていた。

娘の顔はとても愛くるしかった。

それで、やや太くて丸みをおびた鼻もその魅力を損なってはいなかった。

私はとりわけ彼女の表情が気に入ったが、それは実に純朴かつ柔和で、実に寂しげであった。

またそれは、悲しい運命に直面した時に子供が見せる、あのとまどいに満ちた表情でもあった。

彼女はどうやら誰かを待っているらしかった。

白樺林の中で、何かかすかな物音がした。

とっさに彼女は顔をあげてあたりを見回した。

その時私は、雌鹿の目のように大きくて澄んだ臆病そうな双眼に、明るい喜びの色が浮かんだのを見逃さなかった。

ちょっとの間彼女は、そのかすかな物音が聞こえてくる所に大きく見開いた目をじっと据えながら、耳を澄ませていた。

だがすぐにため息をついてゆっくりとこうべを巡らすと、さっきよりもさらにうつむいたまま、もの憂げに花をいじくりだした。

そのまぶたは赤みを帯び、唇は悲しげにかすかに動いていた。

と、不意に、再び濃いまつげの下から、きらめくひと粒の涙がとぎれがちに頬を伝って落ちていった。

このようにしてかなり長い時間が過ぎていった。

哀れな娘は身動きひとつせずに・・・ほんの時たま、もの悲しげに軽く手を動かしはしたが・・・じっとあたりに耳を澄ませていた・・・

再び林の中で何かざわめくような音がし始めた・・・娘は急に元気づいた。

そのざわめきは止むことなく、いっそうはっきりとしてきた。

そして次第に近づいてきて、ついに疑う余地のない人間のせわしい足音となった。

彼女は姿勢を正したが、何かに臆しているようでもあった。

初め、その注意深い目は憂慮の色を帯びていたが、やがて期待に輝きだした。

茂みに男の姿がちらつき始めた。

それを見ると彼女は急に顔を赤らめ、嬉しさと幸福感で微笑を浮かべた。

そして立ちあがりかけたが、すぐにまたゆっくりとくずおれるようにして座り込んだ。

顔からは血の気が引いて、どぎまぎしていた・・・

そしてその男がすぐそばまでやって来て立ち止った時になってやっと彼女はその動揺した、ほとんど懇願するような目つきで彼を見上げたのである。

2012年7月27日 (金)

あいびき (1) (ツルゲーネフ作)

『あいびき』はツルゲーネフの代表作の一つである短編集『猟人日記』の中の一篇です(読みやすくするために、一文ずつ行を変えています)。


Photo_14秋は9月のなかば頃、私は白樺林の中に座っていた。

朝から小雨がぱらついてはいたものの、時折、暖かく日が射すこともあり、概してぐずついた天気であった。

空一面ふわふわした白い雲で覆われていたが、突然、ちょっとの間、ところどころに晴れ間が見えることもあった。

そういう時には、押し分けられた雨雲の間から快いほど晴れ渡った青空が現れたが、それはあたかも美しいひとみのようであった。

私は座って、あたりを見回したり、林の中の気配に耳を傾けたりしていた。

上のほうで木の葉がかすかにざわめいていたが、その音こそは、今がどの季節なのかを知らせてくれる唯一のものであった。

それは陽気に笑いさざめくような春の音でもなく、長いことさらさらと心地よく聞こえてくる夏の音でもなく、あいまいでよそよそしい晩秋の音でもなくて、やっと聞きとれるほどかすかな、眠りを誘うような音であった。

木々の梢がわずかに風にそよいでいた。

雨で潤った白樺林の中は、日の照り具合に応じて絶え間なく変化していた。

ある時には、急に林の中全体が、まるでほほえむかのように明るくなった。

そんな時、さほど密生していない白樺の細い幹は突然、白い絹糸のようにもの柔らかな色合いを帯び、地面に散り落ちていた小さな葉も、赤みがかった金色に輝いた。

一方、よく生い茂ったシダの茎は、もう完熟したブドウにも似た美しい秋の色を帯びていたが、日が射すやいなや、ごちゃごちゃとからまってはいるがきれいに透けて見えるその姿を、私の目にさらすのであった。

またある時は、急にあたり一面がほんのりと青みがかって見えた。

今までの明るい色調は瞬時にして消え、白樺だけが相変わらず白く見えていた。

だがその白さには光沢がなく、それはちょうど、まだ冬の冷たい光が当たってきらめく前の、降り積もったばかりの雪のあの白さに似ていた。

すると、いつしか気まぐれな小雨がひそかに降り始めて、林の中をそのさざめきで満たした。

白樺の葉はかなり色あせてはいたものの、まだほとんどすべてが緑色であった。

ところどころにぽつんと赤色や金色の若木が立っていた。

雨で洗い流された直後できらきら光っている小枝の間から、太陽の光がちらちらと林の中に射し込んできた時に、その光を受けて若木が急に明るく輝き出す様子は見ものであった。

鳥の鳴き声ひとつ聞こえなかった。

あらゆるものが身を潜め、沈黙していた。

ただ時折、シジュウカラのあざけるような声が、鉄でできた鐘の音のように響いてくるばかりだった。

この白樺林にやって来る前に、私は自分の犬を連れて高いヤマナラシ(ポプラ属)の木立を通り抜けた。

実は私はこのヤマナラシという樹木をあまり好まない。

それは薄紫色の幹と金属のような薄緑色の葉を持っていて、葉はみなできるだけ高いところにあって、揺れ動く扇のような姿を大空に映している。

私が好かないのは、円くて不格好な葉が長い茎にぞんざいにつり下がって、絶え間なくうち震えている様子である。(訳注:ロシアでは、ヤマナラシは呪われた不浄の木とされている)

だがヤマナラシも、ある夏の夕方には美しく見えることもある。

低い木々の中にあってひときわ高くそびえ立つヤマナラシが、沈みゆく太陽の赤い光に当たった時、上から下まで黄色がかった赤紫色一色に照らしだされて輝き、かつうち震える様子はすばらしい・・・

また、風の吹く晴れた午後、木全体が青空に向けて葉のさざめきの音を流していて、それぞれの葉が、まるで風によって枝から引きちぎられてはるかかなたまで吹き飛ばされていきたいといわんばかりに強くなびいている様子も、なかなか趣がある。

だが概して私はこの木があまり好きでないので、ヤマナラシの林に留まって休むということはしないで、この白樺の林にやっとたどり着くと、とある一本の木の下にわが身を落ちつけたのである。

その木の枯れ枝は低いところから生えていたので、私は雨に濡れずに済んだ。

こうして、あたりの美しい風景に見とれているうちに、いつしか私は狩人だけが知っている、あのなんともいえない安らかな眠りに落ちてしまった。

2012年3月24日 (土)

対話   ツルゲーネフ   (外国文学 2)

対話(『散文詩』より)


ユングフラウにも、フィンスチラアルゴルンにも、人間の足はいまだに訪れていない。

アルプス山脈の頂き・・・ 急な山腹の峰々・・・ 山脈の真ん中。

峰々の上には、うす緑色の明るいひっそりとした空がある。厳寒、固まってきらめく雪、その雪の下からは、荒れ果てて氷の張ったいかめしい岩の塊が突き出ている。

二つの巨大物、二人の巨人が空の両側にそびえ立っている。それはユングフラウとフィンスチラアルゴルンである。

ユングフラウが隣人にこう語りかける。

「何かニュースはない? あなたのほうが私よりよく見えるはず。何が下にあるの?」

数千年が過ぎる・・・ 一瞬である。するとフィンスチラアルゴルンの答えが鳴り響く。

「一面の雲が地上を覆い隠している・・・ ちょっと待ってくれ!」

さらに幾千年もの長い時間が過ぎ去る・・・ 一瞬である。

「どう、今は?」 ユングフラウがたずねる。

「今度は見えるぞ。下は相変わらず同じだな。ごちゃごちゃとして細かい。川は青く見えるし、森は黒く見える。たくさんの密集した石が灰色に見える。そのそばでは相変わらず虫けらどもがうごめいている。ほら、きみや私の神聖をまだ一度も汚したことのない二足動物のことだよ」

「人間たちのこと?」

「そうだ、人間どもだ」

数千年が過ぎ去る・・・ 一瞬である。

「今度はどう?」 ユングフラウがたずねる。

「どうやら虫けらどもは少なくなってきたようだ」 フィンスチラアルゴルンの声がとどろく。・・・ 「下の方が前より晴れてきた。川幅も狭くなったし、森の数も減った」

さらに数千年が過ぎた・・・ 一瞬である。

「何が見えるの?」 ユングフラウが言う。

「どうやら我々のそば近くも晴れたようだな」 フィンスチラアルゴルンが答える。 「おや、遠くのあそこの谷間にはまだ汚れがあって、何かがかすかに動いているぞ」

「ところで今度は?」 またさらに数千年・・・一瞬・・・が経過した後にユングフラウがたずねる。

「今度は良い」 フィンスチラアルゴルンが答える。 「至る所きれいになった。どこも完全に白くなった。どこも我らが雪、おだやかな雪と氷だ。すべてが凍りついた。今は良いな、静かで」

「いいわね」 ユングフラウは言った。 「でもあたしたち、ずいぶんとおしゃべりしたものね、おじいさん。少し眠らなくっちゃ」

「そうだな」

巨大な山々は眠っている。そして永遠に沈黙した大地の上では、緑色の明るい空が眠っている。

(1878年、2月)



Разговор

2012年3月20日 (火)

初恋(抜粋)   ツルゲーネフ   (外国文学 1)

初恋(抜粋)

『初恋』は、ツルゲーネフ好きの私が彼の数ある作品中で最も愛好するものの一つですが、抜粋して翻訳したこの部分は、主人公の「私」の、初恋の女性ジナイーダに対するナイーブな心情がとても良く描かれていると思います。

私は下男に、自分で服を脱いで寝るから、と言った。・・・ そして蝋燭を消した。だが私は服を脱ぎもしなければ、横になりもしなかった。

私は椅子に腰をおろした。そしてまるで魔法にでもかけられたようになって長いこと座っていた。私が体験したことは実に珍しく、また実に甘美なものであった・・・ 私はほとんど目を据えたまま、身動きひとつせずに座っていた。私はゆっくりと呼吸をしていたが、時々、さっきのことを思い出して含み笑いをしたり、次のようなことを考えては内心ぞくぞくとした喜びを感じるのだった。『ぼくは今、恋をしてるんだ。まさにこれこそが、恋というやつなんだ』 闇の中で、ジナイーダの顔が私の前をゆっくりと漂って行った。・・・ 漂って行ったが、それが消えるということはなかった。彼女の口元には相変わらず謎めいた微笑が浮かび、物問いたげな目は、静かに、やさしく、心もち横から私を見つめていた・・・ 私がさっき彼女と別れた時と同じように・・・ やっと私は立ち上がって、そっと自分のベッドのところまで歩み寄った。そして、まるでさっきまでの満ち足りた気分を、急激な動作で損なうのを恐れるかのように、服も脱がずに、用心深く枕に頭をのせた・・・

私は横になってはみたものの、目を閉じることさえできなかった。まもなく私は自分の部屋に、なにかかすかな反射光のようなものが、絶え間なく射しこんできていることに気づいた。私はちょっと身を起して窓の方を見た。窓格子が、ぼんやりと神秘的に白くなった窓ガラスから、くっきりと際立って見えた。『雷雨だな』・・・と、私は考えた。・・・それは確かに雷雨であった。しかしそれははるかかなたを通過していたので、雷の音は聞こえなかった。ただ、くすんだ、長い、まるで枝分かれしたかのような稲妻が、小止みなく空できらめいていた。それはきらめいているというよりもむしろ、瀕死の鳥の翼のように、震えたり痙攣したりしているのだった。私は立ち上がって窓に歩み寄った。そしてそこに朝まで佇んでいた・・・ 稲妻は小止みなく続いていた。その夜は人々の間で「スズメの夜」と呼ばれているものであった。私はひっそりとした砂地や、ネスクーチヌィ公園のぼんやりとした輪郭や、かすかな閃光がひらめくたびに身震いしているように見える、遠くの建物の黄ばんだ正面を眺めていた。私は眺めていた。・・・そして目を離すことができなかった。その控え目に輝く、無言の稲妻は、まさに私の心の中にも燃えていた、あの静かで不可思議な気持ちの高ぶりに合致しているかのようだった。夜が明け初め、真っ赤なまだら状の朝焼けが現れた。太陽が近づくにつれて、稲妻はどんどん色薄れ、短くなっていった。稲妻はますますまばらになり、ついに消えてしまった。それは、一日の始まりの、はっきりと覚醒した暁に沈んでしまった。・・・

私の心の中でも、あの稲妻は消えてしまった。私は大きな疲れと安らぎを感じた・・・ だがジナイーダの姿は、勝ち誇った様子で私の心の中に漂い続けていた。まさにその姿だけが落ち着いているように見えた。あたかも沼の草むらから飛び立った白鳥のように、ジナイーダの姿は、そのまわりにいた他の魅力のない人間たちの姿から離れた。そして私は、眠りに落ちながら、最後の別れに際して、信頼に基づく崇拝の念をもってジナイーダの姿にすがりついた・・・