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2012年8月14日 (火)

あいびき (4) (ツルゲーネフ作)

Photo_4「お花よ」

寂しげにアクリーナが答えた。

「野原で摘んできたヨモギギクなの」

幾分生気を取り戻して、彼女は言い続けた。

「子牛が喜んで食べるわ。それからこのタウコギは・・・るいれきに効くの。

ねえ、ちょっと見てよ、何て美しい花でしょう。

こんなに魅力的なお花、あたし、生まれて初めて見たわ。

これはワスレナグサ、そしてこっちの方はマトキナドゥシカよ・・・

それから、ほら、これはあなたにあげようと思って摘んできたものよ」

黄色いヨモギギクの下から細い草でくくった空色のヤグルマギクの小さな束を取り出しながら、彼女はそう言い足した。

「受け取ってくださる?」


ヴィクトルは物憂げに片手を伸ばしてそれを取ると、ちょっと花の香りを嗅いでみたが、すぐに、さももったいぶった思案げな様子で空を仰ぎ見ながら、花を指でいじくりだした。

アクリーナは彼を見つめていた・・・

彼女の悲しげなまなざしからは、いじらしいほどの献身と恭順と恋慕がありありと見受けられた。

彼女はヴィクトルを大変気づかって、泣くのをこらえていた。

そして別れの挨拶を交わすと、これを最後と彼に見惚れるのだった。

ところが彼の方は、まるでスルタンのようにだらしなく寝転んで、しかたなく雅量をもって相手の崇拝を受け入れてやるといった風だった。

正直言って、この時私は憤懣の念をもって、そのさげすむような冷淡な態度の裏に、自尊心を十分に満たされて内心ほくほくしている様子が透けて見える、その男の赤ら顔を見つめていた。

この時のアクリーナはまことに美しかった。

男を前にして、彼女はその熱い恋心を隠し立てもなく見せ、その全霊でもって男に憧れ、甘えていたのである。

それなのに男の方は・・・男は例のヤグルマギクを草むらの上に落とすと、外套の脇ポケットから青銅色のまんまるい片眼鏡を取り出して、それを自分の片一方の目にはめようとし始めた。

しかし、眉を上げ下げしてみたり、頬を上へ引きつらせてみたり、鼻をひくひく動かしてみたりして、いくらはめ込もうと試みても、・・・その片眼鏡はいつもはずれて、彼の手の中に転がり落ちるのだった。

「それ、なあに?」

さっきから驚いていたアクリーナが、ついに尋ねた。

「ロルネット(訳注:片眼鏡のこと)だよ」

尊大に彼は答えた。

「何に使うの?」

「これを使うと、よりはっきりと見えるのさ」

「ちょっと見せてちょうだいな」

ヴィクトルは渋面を作ったが、彼女にその片眼鏡を与えた。

「壊さないように気をつけてくれよ」

「大丈夫。壊さないから。

(彼女はその片眼鏡をおずおずと自分の片目の近くに持っていった)

なぁんにも見えないわ」

あどけない口調で彼女は言った。

「目を細めなくちゃだめだよ」

不満げな教師のような声で彼は応じた。

(片眼鏡を手に持って近づけたまま、彼女は目を細めた)

「ああ、そうじゃないよ、そうじゃないったら!

ばかだなぁ、表と裏を間違えるなんて!」

ヴィクトルは大声でそう言うと、アクリーナが片眼鏡の表と裏をひっくり返さないうちに、もうそれを取り上げてしまった。


アクリーナは顔を赤らめてかすかな笑みを浮かべると、横を向いた。

「あたしたち、一緒になるべきじゃないのかもしれない」

「当然だろ!」

哀れな娘は押し黙って、深々とため息をついた。

「ああ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなたがいなくなったらこのあたし、一体どうしたらいいの!」

不意に彼女が言った。


「そうさな」

やっと彼は言い出した。

「確かに初めのうちはつらいだろうな。

(彼はアクリーナの肩を慇懃無礼に軽く叩いた。

アクリーナは自分の肩にかかっている彼の手をゆっくりと取ると、おずおずした様子でそれに口づけした)

これはこれは、本当に気立てのいい娘だな」

得意げな薄笑いを浮かべながら、彼は言い続けた。

「でも一体どうすりゃいいってんだい? 考えてもみなよ!

おれと旦那はここに残るわけにゃいかんのだ。

もうすぐ冬がやって来るが、冬ともなればこの村なんぞ、・・・きみも知ってるように・・・

ただ退屈でやりきれないだけだ。

だがぺテルブルクはそうじゃない!

あそこには、きみみたいな田舎者が夢にも思い描くことのできないすばらしいものが、ほんとにあるんだ。

建物といい街路といい、目を見張るばかりで、社交界やその教養ときたら、・・・まったく驚くべきものがある!・・・

(アクリーナは、まるで子供のようにぽかんと口を開けて、彼の話に聞き入っていた)

「だがまあ、」

下を向いて彼は言い足した。

「こんなことをきみにいくら話してみたところで、一体何になるだろう?

所詮きみにはわかりっこないんだからな」

「とんでもない、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。

わかったわ。あたし、今のこと全部わかったわよ」

「ほう、そうかい!」

アクリーナは目を伏せた。

「あなた、以前はあたしにそんな言い方しなかったわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

目を伏せたまま彼女は言った。

「以前は?・・・以前は、だって!ふん、くだらない!・・・以前は、か!」

怒ったように彼は言った。

二人とも黙ってしまった。

「そろそろ行かなくっちゃ」

ヴィクトルはそう言うと、片手をついて立ち上がろうとした・・・

「もう少し待ってちょうだい」

すがりつくような声音でアクリーナが言った。

「どうして? もうお別れの挨拶は済んだじゃないか」

「待ってちょうだい」

アクリーナは繰り返した。

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コメント

面白いです^^!! この時の アクリーナの心の思いが よく解ります。
誰も 1度くらい体験している 思いですね。どんなに ダメな人間でも
「ダメ」そのものを 愛してしまうのですね。 自分を愛しているように・・。

しかし、面白いことに 別れたあと すっきりして生き返るのは、
アクリーナかな^^。
永遠に どの時代でも 人は繰り返しているようです^^

> kawasemi さん

こんなに美人でいじらしいアクリーナに慕われている
ヴィクトルこそは、果報者というべきでしょうかw
恋愛模様は、本当に様々で興味が尽きませんね。
普遍的な男女間の心理の機微をこれほどまでに
ヴィヴィッドに面白く描き出すツルゲーネフの技量に脱帽です^^

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