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2012年6月 7日 (木)

老婆   ツルゲーネフ   (ロシアの抒情詩 16)

老婆(『散文詩』より)


私はひとりで荒野を歩いていた。

と、不意に、背後に用心深いかすかな足音を聞くような気がした・・・ 誰かが私のあとについてきていたのだ。

私は振り向いた。・・・ すると、灰色のぼろにすっぽりと身を包んだ、腰の曲がった小柄な老婆が目に入った。 ただ老婆の顔だけがぼろの下からのぞいていた。 それは鼻がとがって歯の抜けた、黄色いしわくちゃな顔であった。

私は彼女のところへ近づいて行った・・・ 彼女は立ち止った。

「あんた誰? 何か用? 乞食なの? 物乞いしているのかい?」

老婆は答えなかった。 私は彼女のほうへ身をかがめた。 するとその両眼が、ある種の鳥によく見られるような、半透明で白みがかった膜のようなもので覆われていることに気づいた。 それらの膜は老婆の両眼を、あまりに明るすぎる光から守っているのだった。

だが老婆のその膜は動きもしなければ、瞳を開きもしなかった・・・ で、私は彼女が盲目であると判断した。

「めぐんでほしいのかい?」 私は自分の問いを繰り返した。 「なんでまた、おれについてくるんだい?」 しかし老婆はさっきと同様答えずに、ただかすかに身をすくめただけであった。

私は彼女から顔をそむけて、みずからの道を歩き始めた。

すると、またもや背後に、あのかすかな、規則正しい、まるで忍び寄るかのような足音が聞こえてくる。

『またあの女だな!』 私はそう思った。 『なぜあいつはおれにつきまとうのだろう?』 だがすぐに心の中でこう考えた。 『たぶんあいつは目が見えないので道に迷ってしまったのだ。 それで今は、おれと一緒に人の住んでいる場所に出るために、おれの足音を頼って歩いているのだ。 そうだ、そうに違いない』

しかし私は次第に変な不安感に襲われてきた。 老婆は私のあとをついてきているだけではなくて、私に方向を与えているのだ。 そして私を右や左に進ませるのだが、私は知らず知らず彼女の思いのままになっている。 と、そんな気がし始めたのである。

それでもとにかく私は歩き続けた・・・ だが、まさにわが道の前方になにか黒いものが広がっていた・・・ なにか穴のようなものが・・・ 『死神だ!』 このことが突然、頭にひらめいた。 『あいつはおれを、死へ押しやろうとしているのだ!』

私は急に後ろへ引き返した・・・ 再び老婆が私の前にいる・・・ しかし今度は彼女は目が見えるのだ! 彼女はその大きな、毒々しい、陰気な目で私を見つめている・・・ 猛禽の目で・・・ 私はその顔に、その目に近づいてよく見る・・・ やっぱりあの不透明な膜、あの盲目のうつろな顔だ・・・

『ああ!』 私は思う・・・ 『このばあさんこそ、おれの運命なのだ。 人間が逃れることのできない、あの運命なのだ!』

『逃れられない! 逃れられないのだ! これはもうどうしようもないことではないか?・・・ だが努力してみなければ』 それで私は別の方向に歩き出す。

私は足早に歩いて行く・・・ が、相変わらず背後であのかすかな足音がする。 それもごく近くで・・・ すると再び前方に穴が暗くぼんやりと見えてくる。

またもや私は別の方向に向きを変える・・・ と、やっぱり後ろで同じかすかな足音がし、同じ無気味な黒いしみが前方にあるのだ。

そして私が、追われているノウサギのように、どちらの方向へ駆けずりまわっても・・・ すべて同じ、まったく同じことなのだ!

『待てよ!』 私は思う。 『ひとつ、あいつをだましてやろう! もうどこにも歩いて行かないぞ!』 で、私はすぐさま地面に腰をおろす。

老婆はすぐ後ろに立っている。 もはや彼女の足音は聞こえないが、彼女がそこにいることが感じられる。

と、不意に、あの黒いしみが私のほうにゆっくりとせまってくるのが見えるではないか!

ああ、なんということ! 私は後ろを振り返る・・・ 老婆がじっとわたしを見つめている。・・・そして歯の抜けた口元は薄笑いでゆがんでいる・・・

逃れられないのだ!

(1878年、2月)



Старуха

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コメント

ツルゲーネフですねぇ 大好きです。
時代を超えて 生きることの 穴、
あぁ 逃れられない・・・^^

いつも、かどり ふづきさんの素敵なブログ ありがとう!

> kawasemi さん

ツルゲーネフの『散文詩』は、同じ散文詩集でも、
ボードレールの『パリの憂鬱』などとはまた違った、
どこか親しみやすくおおらかな感じがして、私も大好きです^^

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