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2012年2月 7日 (火)

ロシアの抒情詩シリーズ

このブログを始めてから間もなく、書いていく内容のことを考えていた時に、ふと、以前学生だった頃、自分の楽しみとしてロシアの文学作品の翻訳を試みていたことを思い出し、それらを掲載してみようかという気になりました。

翻訳した作品の数はあまり多くはありませんでしたが、それらはみな、当時の私自身の嗜好によく合ったものばかりで、露和辞典片手に、わりと楽しく訳していたことを記憶しています。

幸いにして、それら拙訳の大部分が書き入れられている数冊のノートを「発掘」することができ、今はいささか懐かしい思い出に浸っています。

若干数、散文作品もありますが、ほとんどが、「金(きん)の時代」と呼ばれた、19世紀のロシア文学の最盛期に活躍した詩人たちの小品で、もしかすると、「本邦初訳」のものも含まれているかもしれません。

ところで、詩、とりわけ韻文作品の翻訳についてはとかく様々な見解がなされているようで、詩の翻訳などほとんど意味をなさない、などと極言する人もいるようです。

たしかに、韻を踏んでいる詩作品を他国語に訳してしまえば、その原作の音楽的要素はほぼ消失してしまうわけで、音楽性をその大きな魅力として有する詩作品の味わいは半減してしまう、という意見には首是せざるを得ません。

しかし、外国の詩(私の理解の及ばない言語を国語とする国のものが多い)を愛好する私としては、翻訳された韻文作品でも、それらの持っている雰囲気をよく出しているものなら、十分鑑賞に値すると思っています。

ロシア語にしても英語にしても、いかに親しくその言語と付き合っていても、どこかで母国語である日本語を介入させて理解している感は否めませんでしたし、そのようなことは大概の外国語学習者が普段感じていることでしょう。

母語で理解し、感じなければならない、というのはほとんど宿命だと思います。

「海潮音」や「月下の一群」等から今に至るまで、日本では訳詩集はいつの時代にも多くの人々に愛読され続けていますが、それだけ原文の雰囲気を巧みにつかんだ、優れた翻訳作品が多い証左でしょう。

もちろん、私の当時の翻訳は、どこか生硬で稚拙な印象を免れないかもしれません。

けれども、明らかにおかしいと思われる個所を除き、あえてそれらを一言一句、句読点まで修正せずこれから掲載しようとするのは、私のあの頃のみずみずしい感性によって生まれたものをいたずらにいじることに、今の私が少なからぬ抵抗を感じるからにほかなりません。

一応、作品の後に作品名と、創作年(分かっている場合に限る)、そして作者名を原語表記で書き、簡単な詩人小伝を付け加えておきたいと思います。

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